1854年、日本が鎖国を開くと、西欧の自然科学がどっと入ってきました。地質学という科学的な学問体系も日本に入ってきました。
西洋化を背景に、通称、お雇い外国人と呼ばれる高度な知識を持つ研究者や技術者が明治政府に雇用されていきました。その中に、日本地質学の父と呼ばれるナウマン(エドムント・ナウマン)というドイツ出身の研究者がいます。ナウマンは長野県野尻湖で発掘されたゾウの化石で有名で、かつては小学校の国語の教科書にも書かれていました。ナウマン自身は、すでに瀬戸内海や横浜などで発掘されていた化石をゾウの化石として、科学的に明瞭に報告しただけなのですが。
ナウマンはゾウの化石で有名ですが、彼の真の功績は、近代日本で一番初めに日本列島全体の地質学的概念を位置付けたことです。
白い磁器の産地で有名なマイセンで生まれそだったナウマンが日本にやってきたのは1875年(明治8年)のことです。彼が20才の時でした。ミュンヘン大学で博士号を取得したばかりで王立バイエルン高等鉱山局に入所して2ヶ月経った日、彼は上司から日本行きを打診され、同年8月には来日しています。
当時の日本人が、西洋化という坂の上を目指して新しい国づくりに邁進するのと呼応するかのごとく、同時代に来日した他の地質学者同様、ナウマンも、年齢の近い若い学生たちを指導しながら、忙しい日々の合間を縫うように日本各地の地質調査を精力的に実施します。当時の日本は明治の開国とともに石炭資源の開発などに迫られ、そのための地質調査が急務であったという事情がありました。
そんな彼は、来日1ヶ月後には噴火したばかりの浅間山に調査に行きました。後の日本列島形成に関する重要な発見をしたのは、浅間山調査のための登山を終え、その麓に流れる千曲川を超え、八ヶ岳山麓の野辺山高原近くにたどり着いた時でした。前日の暴風雨が明けて、翌朝ナウマンが外に出てみると、そこには彼にとって生涯忘れることのない光景が広がっていました。
八ヶ岳の南には甲府山地が広がり、その低地に流れる釜無川(富士川の支流)の流れを挟むかのように、川の両側には、川と並行な方向に3,000m級の山を含む急峻な山脈が連なり、しかも川の方向に崖のように落ち込んでいる。この川を作る谷地形は日本列島を完全に分断する溝のようであり、そして、その溝の先には日本一高い火山である富士山がそびえている。ナウマンの目には、このような地形が広がっていたのでした。
ナウマンが見たと思われるフォッサマグナの光景